宝永大地震による本堂倒壊
世の中が安定していた元禄時代
順慶寺中興開基として敬われた了慶は、元禄二年(1689)に亡くなり、その後、第八世・了先が華やかな順慶寺の法灯を嗣ぎます。しかし、了先は、元禄七年(1694)に急逝し、急遽住職には、了先と異母兄弟だった了天が任命されました。順慶寺として最も安定した時代に、一つのつまずきだったかもしれません
了先や了天が順慶寺住職を務めた、元禄(1688~1704)の時代は、ご存知のごとく、徳川綱吉の時代。
赤穂浪士の討ち入りがあったり、生類憐れみの令が発令されたりした、世の中が安定した時代であったように思われます。
元禄時代の終わりと本堂の倒壊
ところが、長く続いた元禄の時代に終わりを告げたのは、元禄大地震。この地震により、小田原など関東を中心に、未曾有の被害を出しました。
幕府は、世の天変地異を忌み嫌い、宝永に改元しましたが、天変地異は収まらず、陸奥の大地震(宝永元年)霧島桜島噴火(宝永二年)など元禄大地震に連動する災害が相次いで発生しています。そして、ついに宝永大地震が発生。その四十九日後、富士山が史上最後の大噴火(宝永大噴火)します。その後も、日本全土では天変地異が相次ぎ、阿蘇山噴火(宝永五年~六年)、三宅島・岩木山同日噴火(宝永六年)が発生しています。宝永年間は、天変地異に暮れた年間でした。
確かな記述はありませんが、おそらく、了慶の時代に建てられた順慶寺の本堂も、宝永大地震やその余震により、倒壊してしまったものと思われます。
再建以来およそ二十年で、新築の本堂を失ってしまう惨事でした。
やむを得ず仮堂建立
困窮する生活、仮堂を移築
未曾有の宝永の大地震。建物の倒壊と津波による被害は甚大なものがあり、震害、津波によって倒壊(流失)家屋二万九千余戸、死者四千九百人余と推定されていますが一説には二万人を超えたともいわれています(防災アドバイザー・山村武彦氏説)。
幕府は、同年十月十三日(十一月六日)には各藩が独自に出していた藩札の停止令を出し、発行元に五十日以内に正貨と交換するよう命じました。このため、阿波藩、安芸藩を始め、各藩では資金調達に困難を生じ、財政が極度の窮乏に陥りました。また、幕府は諸色の高騰を防止するため、十月二十七日(十一月二十日)に買い溜め禁止の触書を出しました。ところが、追い打ちをかけて、富士山が史上最後の大噴火を起こし、噴煙や噴石は江戸にもおよび、大被害が及んでしまいます。
慌てた幕府は、「諸国高役金令」を公布し、大名や旗本らに石高百石につき二両を差し出させることを命じ、結果、幕府には四十万両が集まりました。一両は、現在の十三万円ほどとみますから、ざっと五百二十億円ほどのお金が集まったことになります。しかし、これだけのお金を集めても、財政の困窮を救うにはスズメの涙ほどにしかならず、幕府は、ついに金銀を改鋳し、粗悪な金銀を多く造ることを決断してしまいます。
こうして、粗悪な金銀が多量に市中に出回り、物価は急騰し、震災で被害を蒙った人々の暮らしはさらに困窮を増してしまいます。
この中で、順慶寺は、宝永の大地震後に倒壊した本堂を建て直すことはできず、やむを得ず、順慶寺第十世住職・了天は仮堂を移築することとしました。そして、後世に対して、決して無理をせず、「一代一仕事」を為すよう言い伝えました
天井にあった四枚の欄間
宝永の大地震(1707)によって倒壊したと思われる順慶寺の本堂は、震災後の大変な経済状態の中で、本格的な本堂を建築する余力がなく、およそ十年後に第十世・了天は、「仮屋之の草刹」となる仮堂を、どこかから移築しました。続く第十一世・了順は、了天の言い伝えを守り、一仕事に着手しました。
そこで考えたのが仮堂天井の張替と鐘楼の新築です。天井一つをとっても、立派な本堂となると、組み物を無垢材で作るので大変な費用がかかるはずです。了順は、知多郡横根村(現大府市横根町)から神谷彦助という棟梁を迎え、庄屋・岡本七右衛門の力添えによって、享保十九年(1734)、仮堂建設からおよそ十七年後に天井を張替ました。この時に本堂の大棟に残した棟札が、今も順慶寺に現存する最古の棟札として残っています。
仮堂時代の苦労
続く第十二世・了意の代。記録には、明和八年(1771)に三十八歳で早逝したとあります。ただ、前住職が寛延三年(1750)に亡くなったとありますから、およそ住職在任期間は、二十年ほどだったようです。
了意は、若くして住職になったこともあってか、ビジュアル的な感覚を駆使していた様子がうかがえます。例えば、明和三年(1766)親鸞聖人絵伝を下附され、同時に絵伝を使って絵解きする免許を受けたことが上げられます。その後、了意氏を中心に、親鸞聖人五百回御遠忌法要を迎えることを考え、本堂の欄間他を修繕することにしたのではないかと推測しています。ビジュアルを重視した了意氏らしい決断だったと思います。
さて、平成三十年に落成した順慶寺本堂等改修工事にあたり、本堂の調査をした際に、本堂の天井に古い欄間が四枚あることが判明しました。かなり、ホコリを被っていましたが、立派な模様で、手の込んでいるものでした。当初、今の本堂にはどこにもはまるところがないので、どういった意味で天井に上げられていたのか不明でした。
その後、他の寺などに残っていた欄間との比較調査によって、江戸時代の中期のものであるとの見解が出され、様々に検討した結果、おそらく、四枚の欄間は、仮堂時代に、一代一仕事として十二世・了意代に作られて、仮堂にはめたれたものだろうと結論されました。おそらく、現在の本堂を上棟した文化四年(1807)に、製作後二十年も経っていない新しい欄間を捨てるのは惜しいとのことから、十三世・了明が、本堂の天井裏に残したものだと判りました。
これを受けて、平成三十年の御修復では、この欄間を修復して修復工事後の本堂に飾ることにしました。
本堂再建を発願
第十二世・了意は、第十一世・了順の第四子だったこともあり、弱冠十七歳で、父親を亡くし、住職を継承。明和八年(1771)三十八歳の若さで亡くなります。
了意には、男女一人ずつの子供があり、第二子だった第十三世・了明は、父親の早逝により、十九歳の若さで住職を継承しています。おそらく、了明が了意から住職を継承された時分には、二代続けて十代の住職が継承したために、順慶寺の経済は極めて苦しかったに違いありません。
了意の跡を継いだ了明には、二人の男子があり、若くして住職を継承し苦労したこともあり、自身の元気なうちに住職を継承し、住職をサポートすることにし、長男の了然が二十歳になったころに、代を譲ることにしました。ところが、跡を継いだ了然は、寛政十一年(1799)九月に二十一歳の若さで亡くなってしまいました。了明の失意は、容易に推し量ることができます。長男を失った了明は、仕方なく四十三歳で再び住職にもどりました。おそらく、次男・了静が住職を継承で きるようになるまで、寺をしっかりと運営しなくてはならないと考えたのでしょう。
ようやく見えた光明
このような苦節の中で一代一仕事を続けてきた順慶寺も、本堂再建ができる兆しが見えます。その理由として、天明四年(1784)、岡崎六所神社より蓮如上人寿像が寄進されたこと。
また、歴代の命日を調べ、『当山改宗已来歴代忌日記』を記して、歴代の功績を讃える機運ができました。 一方、東本願寺では、天明八年(1788)、天明の大火災によって両堂を焼失。そして、その年の暮れには両堂の再建に向けた計画がなされ、およそ十三年後、享和元年(1801)に再建を完了しています。
こうした勝縁は順慶寺においても大きな出来事でした。了明は、若き後住・了静に順慶寺を託すため、思い切って、本堂の再建を決意しました。 今も本堂の棟札には、「現住 了明 齢五十一歳、後住 了静 齢二十二歳」と、後住の名前もはっきり残されています。
棟札から分かること
順慶寺の棟札には、享和三年(1803)九月十六日釿始、文化四年(1807)三月二十八日上棟とあります。木材を集めて、加工・上棟するまでに、四年かかりました。今のように、木材を倉庫に保管したり、機械で加工したり、大型クレーンでつり上げたりすることができないので、上棟式をするまでに、長く日数がかかることは当然のことです。大工は、棟梁、当所・小野田伊左衛門(泉田村に在住した、小野田氏一族の方が担当か)。また、棟梁の助手として、深谷氏の数名が担当されました。名前を見る限り、順慶寺門徒以外の泉田二ヶ寺の門徒関係者と思われる方が大工手間にあたったのは、何か意味があったのかもしれません。
また、山林から木材を切り出して(杣工)、大木を丸材や角材に製材する手間(木挽)として、尾張の緒川村の方があたりました。
宮大工、杣、木挽、いずれも近隣で調達することができたことをみると、当時は、遠くまで人材を求めずとも、立派な仕事ができる能力をもった人がいたことが分かります。また、寺社や本屋の普請など、それなりの数があり、宮大工の活躍できる仕事があったのでしょう。
棟札から大発見
平成の本堂御修復では、本堂の歴史について様々なことがわかりました。
その中でも特筆すべきは、棟札の中にある、本堂再建に関わった職人の名前。今回の修復事業の見積に関わった業者で、最も歴史に詳しかったのが魚津工務店の小山興誓さん(安城市野寺・本證寺ご次男)ですが、小山さんが、棟札を見て、開口一番、「いや、すごいものが出てきましたね。九代目の早瀬長兵衛は、人間国宝にも数えられ、名古屋と言わず、日本全国に知れ渡った、彫物師です。順慶寺さんに、早瀬長兵衛の作品があるのは、本当に素晴らしい!」と、絶賛されました。
小山さんは、ほどなくして、早瀬長兵衛の研究家である、岐阜高専の水野耕嗣先生に同行してもらい、順慶寺の木鼻や手挟の彫刻を鑑定して頂く段取りをとって下さいました。その時の報告は、以下の通りです。
「弊社(魚津社寺工務店)による「歴史的な調査報告」の中で、本堂の最も特筆すべき点は、棟札と小屋裏墨書から判明する「彫物師早瀬長兵衛」の関与であると申し上げました。この早瀬長兵衛(代々襲名)は「彫長」の屋号で、名古屋を拠点に江戸時代から現代まで十一代に亘って活躍した彫物師の名門であり、本山東本願寺御影堂(国登録文化財)の棟札にもその名が記されていることも併せて報告させて頂きました。
そして、順慶寺本堂の彫刻は、新たに発見された早瀬長兵衛の現存する早期作品の一つとして非常に重要であるとの評価を致しました。
建築彫刻の研究家で、『尾張藩御彫物師早瀬長兵衛木彫の軌跡』を執筆された水野耕嗣先生に順慶寺本堂を見て頂いた結果、正面向拝の木鼻の獏唐獅子、手挟の雲水龍が早瀬長兵衛によるものと推定されました。水野先生の著書『木彫の軌跡』では、早瀬一門による彫刻が付加された建築が年代順に掲載されているのですが、文化四年(1807)上棟の順慶寺本堂より古い寺社(山車は除く)は、建中寺と山中八幡宮の二件しか現存していません」(以上、小山氏による報告書から)とされました。
棟札にある材木商
その他、棟札には、瓦師、石工師、左官などの記述がありますが、なかでも材木は多方から集められたらしく、材木を頼んだ先として、吉田下地(現大府市)・十蔵、川嶋(現安城市)・佐兵衛、熊村(現刈谷市)・藤左衛門との記載があります。これらの方々は、おそらく、材木商として手広く仕事をしているのではなく、農作業の傍ら、材木を扱っていたと思われます。
その中で目を引くのは、「材木屋 名古屋上材木町 松本屋与兵衛」の記述です。同様に記載されている材木商でも、屋号がつけられているのは、松本屋だけです。
名古屋の幕末当時の資料を見てみますと、「名古屋の木材産業は、名古屋城築城以来の歴史を誇っていた。木曽山の木が伐採され、木曽川と堀川を通って、城下へ運ばれた。白鳥貯木場に集荷された材木は、御用材として使用されるだけでなく、商材として商人に払い下げられた。
材木商は、上材木町、下材木町、元材木町という三町にあった。それらは、堀川の東側に位置し、五条橋から伝馬橋の間にあった。材木屋、立木屋、板屋、白木屋に大別されていた。株仲間の事務所は、材木屋惣兵衛の所に置かれていた」(『愛知千年企業』より)とあります。この記述には、松本屋の屋号は出てきませんが、上材木町というのは、木曽の木材を貯木したところだと分かりますので、順慶寺の木材の多くは、木曽の材料で揃えられたことが分かります。
現在の本堂中央部にある、ケヤキ柱は、建築以来二百年がたった今でも、全く虫食いや腐食がありません。おそらく、再建にあたった当時の肝煎同行の方々が、お金に糸目を付けず、名古屋の松本屋から一級品の木材を買い付けたらしいことが分かります。
現本堂の落成年代の確定
さて、それでは現本堂はいつごろ落成したのでしょうか。これに関しては文書による記述がありませんので、確かに確認できる資料として、過去帳による検証で進めます。
過去帳には、文化八年(1811)正月より、次冊に移すと記述され、同年十月より、過去帳の記述者が十五世・了静の手に移っています(第十四世・了然は、寛政十一年(1799)二十一歳で亡くなり、弟である了静が継いでいた)。また、本堂再建の発願をした第十三世・了明は、文化九年(1812)七月一日に亡くなったとあります。つまり、文化八年初頭には、確実に寺の運営は、了明の手を離れたことが分かります。
本山では、寛政十年(1799)に両堂の再建がなり、親鸞聖人五百五十回御遠忌法要が文化八年十一月につとめられました。本山が御遠忌が勤められる前に、末寺である順慶寺が御遠忌を勤めることはあり得ません。
以上のように考えると、順慶寺では、文化八年暮れに御遠忌法要がなされたと推測でき、その二年前の文化六年(1810)ごろに本堂を落成させた推定できます。
肘木を旧仮堂時代の部材と確認
ところで、平成二十九年七月、今回改修工事にあたって下さっている、亀山建設の棟梁・櫻井好文さんから、「本堂の工事をしていて、本堂の雲型の肘木の裏から文字がでてきましたので、また見て下さい」と言葉をかけていただきました。
その後、本堂に行き、本堂の工事現場を見渡すと、本堂の真ん中にわざわざ文字が見えるように肘木が置いてありました。近づいてみると、それは、本堂の正面にある立派なケヤキ材の大虹梁と、一尺ほどのケヤキの白木柱が組み合わされているところの角に、飾られていた雲型の部材であることが分かりました。
日本建築の資料によりますと、肘木とは、本来、組物の上にして、構造体を支える部材と分かります。ただ、さし肘木は、構造体の基本が組み上がってから、柱に直接差し込む形の部材で、地震大国日本では、構造的に弱いという欠点から、さし肘木は、専ら装飾の意味が多かったようです。順慶寺の本堂でも、雲型さし肘木は、装飾のために取り付けられていたと思われ、今回、本堂の建て起しのために、一旦外されることになったものです。さし肘木の裏に書いてあったのは、「為い仏恩報謝、古堂九十三年之間、文化三年七月吉日」文化三年は、本堂上棟の前年、そして、その九十三年前は、正徳三年(1713)。丁度、仮堂の移築月日でした。つまり、雲型さし肘木は、本堂再建を発願した了明によって、仮堂から新築本堂に残された部材だったのです。